旧与板別院歴史年表

天保 4(1833)年・・・本山から許可され、御本尊様与板へ。

嘉永 6(1853)年・・・現在の場所に決まり普請始まる。

元治 元(1864)年・・・渡し舟沈没。死者多数。

慶応 3(1867)年・・・建立費欠乏。念仏踊りで街頭奉加。

明治 3(1870)年・・・別院完成。翌年慶讃法要勤まる。

明治 4(1871)年・・・戊辰戦争の戦火を逃れた与板城大手門が移築される。

明治 9(1876)年・・・明如上人ご臨席で大遠忌法要。

明治17(1884)年・・・忠衛門の歌碑本堂に建立される。

平成 9(1997)年

      3月10日・・・与板、三条両別院の合併承認。

      6月 9日・・・与板、三条両別院合併登記完了。

 

平成13(2001)年

       4月23日・・・御遷仏法要、その後本堂解体始まる。

       6月 1日・・・起工式。

      11月19日・・・上棟式。

      12月28日・・・庫裏完成引渡し。

平成14(2002)年                    

       9月28日・・・御遷仏法要。

平成15(2003)年

       4月 6日・・・落慶法要記念講演。

  4月23日~24日・・・落慶法要及び園児の集い開催。

               親鸞聖人750回大遠忌に向け、タイムカプセルを埋める。 

                         


与板別院建立~三条別院との合併~新潟別院へ

 与板第8代藩主 井伊右京亮直経 の発願により、与板に御坊設立の願いが本山(京都西本願寺)に提出されたのが別院建立の始まりである。 

 1833(天保4)年7月、本願寺第20代廣如宗主により御坊建立の許可。同年11月、本山より御本尊が下付され、堂于を営みこれをご安置した(現在の与板組 明元寺内)。

 建立時は幕末の混乱期でありまた、1864(元治元)年、人夫を乗せた渡し舟が沈没し、建立費は窮乏していた。

 しかし近郷の多くのご門徒から労力、金銭の両面にわたる

   多大な助力を頂き、1870(明治3)年に本堂が完工した(倉重忠衛門・中川正甫の項を参照の事)。

 さらに1876(明治9)年、明如宗主御親修による宗祖親鸞聖人600回大遠忌法要が厳修され、これ以後与板別院と名付けられた。

 新潟教区にはこの与板別院の他に三条別院があった。

これは、1828(文政11)年の三条大震災犠牲者追悼のために藩主内藤紀伊守より3000坪の寺領寄付を受け与板御坊建立の許可がなされる前年1832(天保3)年同じく廣如宗主の代に建立された。

 その後、1880(明治13)年、1920(大正9)年とたびたび火災で焼失し現在の建物は1928(昭和3)年に再建されたものである。

旧三条別院
旧三条別院

  1997(平成9)年、本願寺第24代即如宗主の「一教区一崇敬一別院」の願いのもと、旧与板別院(崇敬寺院数82ヶ寺)と旧三条別院(崇敬寺院数61ヶ寺)が合併し、現在の本願寺新潟別院と三条出張所の体制となった。よってこの新潟別院は、長年にわたって旧与板・三条両別院の護持、運営にご尽力された有縁の方々の志を受け継ぎ、親鸞聖人のみ教えをお聞かせ頂く新潟教区の中心道場である。


本願寺新潟別院境内の碑など

倉重忠右衛門の筆子塚
倉重忠右衛門の筆子塚

 

碑 文

 帆をあげし法(のり)の御船に乗せられて

 無常の風と ともに浄土へ

                   辞世 

  

         釈了品 倉重忠右衛門  六十二歳

 

 

 

 

  旧本願寺与板別院(現新潟別院)の堂宇建立にあたり、藩主井伊氏より与板村内中島の地(敷地約5000坪)の寄進を受け、853(嘉永6)年に与板御坊として本堂(約290坪)の着工をみました。

 しかし、この工事に当たっては折しも幕末の混乱期に重なり、藩主井伊氏が1863(文久3)年の将軍上洛に当たり彦根候と同道にてお先手を仰せつけられるなどのため、金銭的に窮乏することとなりました。

 

 1865(元治2)年6月1日に本堂立柱式を挙行したにもかかわらず造立費はさらに極度の窮乏を来たし、屋根も葺かないまま風雨にさらされる有様となりました。 またこの間には1864(元治元)年、信濃川の対岸からの人夫を乗せた渡し船が沈没し30人もの犠牲者を出す事故も起こっています。 

 

 さらに明治維新、戊辰の役までもが影響し、時代が明治と変わってからは一層建立費が欠乏し、倉重忠右衛門さんを代表とする多くのご門徒さんがその工面に東奔西走してくださいました。 記録にも「なかんずく、瓜生(村)忠右衛門東奔西走す。(略)遠く佐渡まで出うけて街頭奉加に念仏踊りをやった」「終いに右 忠右衛門は自家所有の田地を悉く抵当として金策を計り」とあります。

 

 このような大変な苦労の末、1870(明治3)年に本堂が完工しました。 さらに1876(明治9)年、明如宗主御親修による宗祖親鸞聖人600回大遠忌法要が厳修され、これ以後与板別院と名付けられたのです。 

この『倉重忠右衛門の筆子塚』は上記の瓜生(村)倉重忠右衛門さんの功績に対し、建立されたものと思われます。尚、「筆子」とは学問を学ぶ弟子のことで「筆子塚」とは師匠の遺徳を忍んで弟子が建てた塚ということです。

 

また現在も毎年10月23・24日に厳修される『新潟別院謝恩講』はこの別院建立にむけた当時の多くの御門徒の皆様による多大なるご尽力に感謝し、さらには建立のために犠牲となられた方々を追悼するために設けられ、今に続いている法要であります。


侠客杉沢利平の碑
侠客杉沢利平の碑

碑 文

侠客杉沢利平之碑

正三位勲一等子爵

陸軍中将三浦悟楼 印

 

   杉沢組々長・杉沢利平は、与板町の明治・大正時代における土木事業の先駆者です。 大河津分水(おおこうずぶんすい)の大工事をはじめ、与板側の信濃川大改修工事に貢献した功績などにより、与板の有志はじめ新潟県下の土木事業者が顕彰して建立した碑です。


中川正甫の墓
中川正甫の墓

 

 与板町の大商人中川家四代目を継ぎ、町の文化・経済の興隆に尽力した中川津兵衛(号 正甫)の墓。 正甫は文化12(1815)年、京都から桜、赤松、紅葉などを取り寄せ、都野神社の裏山に八幡公園を企画建設しました。

 また、別院建立に対しても物心両面にわたり尽力され、中門を慶応元(1865)年に寄進されています。

 この中川家の子孫に日本ビールの父・中川清兵衛がいます。


別院初代輪番の墓
別院初代輪番の墓

   本願寺新潟別院は、1833(天保4)年7月、本願寺第20代廣如宗主により御坊建立の許可がなされたことがその始まりであります。

 同年11月、本山より御本尊が下付され、堂于を営みこれをご安置しました(現在の与板組・明元寺内)。

 その発足当初の与板御坊(別院)に赴任した初代輪番:西敬寺師が、1836(天保7)年9月30日御坊において病死され、葬儀は10月3日に執り行われたと記録されています。

 導師は現在の与板組・長明寺師がつとめました。 その墓が現在も別院境内にあります。


 新潟別院旧本堂

 

 新潟別院の旧本堂は、1864(元治元)年に着工し1870(明治3)年に完成した、間口18間の建物でした。 この建物については、下のHPに詳しく紹介して頂いています。ご覧になって下さい。

(さようなら!旧「本願寺新潟別院」(与板)の頁)



旧新潟別院本堂取り壊し並びに新築風景

(2001年~2003年)


本堂・庫裏解体~御遷仏・落慶法要


新潟別院本堂竣工遷仏法要

 2002(平成14)年9月28日(土)に、完成なった本堂にご本尊をお移しする御遷仏法要が厳修されました。

 当日は、翌日の第30回新潟教区仏教婦人大会の為にお出で頂いた仏婦総連盟総裁様にもご臨席いただき、約350人のご門徒が参拝の中、盛大な行事となりました。

 これよりはこの新築なった新潟別院本堂が、再び我が新潟教区内全ての御同行の念仏道場として、 その機能を果たすこととなります。ご門徒の皆様の歓喜の念仏が堂内にあふれた1日でした。


本願寺新潟別院落慶記念 特別講演会

2003年4月6日(日)

 新潟市の『新潟県民会館』を会場に行なわれた講演会は、1000人を越す方々がご来場下さり、大変な盛会となりました。

 講演会の演目は、第1部として教区内の願正寺坊守 乙山氏によるひとり語り「新潟別院物語」、第2部として小沢昭一氏による「明日のこころ」と題する講演でした。

 

 ご来場いただいた方々にはお楽しみ頂けたことと思います。

本願寺新潟別院落成慶讃法要

2003年4月23日(水)~24日(木)

 二日間ともあいにくの小雨模様となりましたが、それぞれ600人を超える参拝者にお出でいただき、法要を厳修することができました。